ふと、あまりにも煮詰まってしまったので、出かけることにした。
相方と話した結果、ちょうどサツマイモの新芋がでるころだろう、ということでイモを買いに出かけた。
行き先はいろいろ考えた末、霧島方面。
南薩の方が本当はいいのかもしれないが、ついでに牧場にでも行こうか、という趣向だ。
行き先は、「高千穂高原牧場」。
以前学生と行って良かったのだが、それ以来たどり着けずにいる場所。
だいたい自宅から1時間と少しで到着するはずなので、今回は絶対に行くぞ!という意気込みで、僕がナビをした。
結論から言うと、無事牧場を見つけることができた。
が、この場所は以前行ったことがあることもあり、ソフトクリームを食べ、牛を触って帰ることにした。
おもしろかったのは、その近くにある「高千穂たまご牧場」(だったかな?)。
鶏が結構広いスペースで放し飼いになっており、えさを買えばそのスペース(金網で囲まれている)に入ることができる。
えさはキャベツだったが、おもしろいぐらいに鶏が寄ってくる。
後で聞くと、そのスペースだけで600羽近く鶏がいたらしい。
卵を産むから全部メスなので、ハーレム状態。
男というものは一生のうちに3回すごくもてる時期があるというが、その一回をもしかしたら使ってしまったのかもしれない。
当然ながら人にすごくなれていて、自分たちの手からキャベツをばくばくと食べる。
(本当にキャベツなんかでいいの?)
と、ちょっぴり良心の呵責を覚えたりするわけですが、ほかの野菜の持ち合わせがないので、これで我慢してもらうしかないというところです。
なんとなく、キャベツにこれだけ群がってくる彼らを見ていると、
(普段ろくなもん食わせてもらってないんかいな)
そんな感想がふと頭をよぎったりします。
次に行くときには、無農薬栽培のキャベツで育った青虫なんか持っていってあげるといいかもしれません。
同じ敷地内には、子供向けなのかもしれないが、ウサギと鶏の雛もいた。
これは6畳くらいのスペースに50センチくらいの金網を張り巡らしただけのスペースだが、ウサギと鶏が仲良く暮らしている。
相方がコオロギを投げてやると、みんなで取り合いになっていた。
ついにコオロギを獲得した鶏がいたのだが、それをすぐに食べずに逃げ回るので、ひとしきりおいかけっこが続いた。
(早く食べればいいのに)
普通の人ならそう考えるだろうが、鶏には手がないので、一度変な風にくわえてしまうと、ちょっと落ちついて、コオロギをくわえなおさないといけないようだ。
そんなわけで、その雛はしばらくしてからようやく隅っこに行き、ゆっくりとコオロギを食べることができた。
先日の日記で、nDiaryの利用者って読書系が多いって話をしましたが、 ヒラマドさんがそれにある程度の回答を示してくださっていました。
要するには、作者ののとやさんが、読書者であるということですね。
確かに、書店へのリンクフィルターをはじめとして、本の紹介をするには非常に便利ですよね。
こういうのって、読書者が増える→読書関連支援ツールが増える→読書者が増えるっていう好循環が生まれると爆発的に普及しますね。
nDiaryはこういう好循環が少しだけ生まれているような気がします。
これから、さらにブレイクするのかどうか、というのは、実はマニュアルの充実度に寄るのかもしれないと思います。
なんだかんだ言っても、nDiary、Rubyのインストールからやらなきゃいけないし、シェルを使わなきゃいけないので、結構めんどくさいですよね。
それに、さるさる日記は使えても、nDiaryは使えないレベルのスキルの人というのは非常に多いんじゃないかと思います。
そんなわけで、時間ができたら、apollo使ってGUI作りたいなーなんて思います。
が、誰かやってくれないかなという他力本願もあったりして。。。
ふと考えると、GUI部分は別にRubyである必要はないのかもしれない。
それなら自分にもできるかもしれないなーと思いますが、やる時間あるかなー。
ちょっと考えた限りでは、必要なツールは以下の通り。
1:設定ファイル編集ツール
2:htmlに、プラグインとかを埋め込むツール
3:nDiaryインターフェース統合ツール(日記の編集(外部エディタの呼び出し)+更新(diaryの呼び出し)+ftp)
うーん、これだけのものを作るというのは結構面倒ですねえ。
とりあえず、設定ファイルの編集をGUIでやれるようになるというのはいいことかもしれませんね。
マウスの動きがおかしかったので、WindowManagerが死んだのかな?と思ってたら、物理的にマウスが死んでいた。
こんなことってあるんだなあと思いつつ、予備のマウスもないので学生用のマウスを奪って使ってみる。
どうやら問題なく使えるようだ。
この間、WindowManagerの設定があんぜかむちゃくちゃになってしまったので、何とかしなければいけない。
どうしよう。。。
明日から北海道に遊びに行く。
カヌーをしようと思う。
ようやく遅い夏休みがとれるというわけだ。
そういえば、今年は海にも行かなければ、釣りに行く暇もなかった。
山には行ったが、半分仕事だし、友達も相方も一緒じゃなかったので、やっぱり休みとはいえないだろう。
今回の北海道行きは、飛行機のマイレージを利用して行くことにした。
マイレージというのは実は有効期限があるそうで、今年の末に3万マイルほど期限切れになってしまう。
にもかかわらず、「仕事でマイルが使えるか!」というこだわりのせいで、使う機会というのはほとんどない。
よくよく考えたら、あまり飛行機に乗って遊びに行くほど遠くなんて行く機会はそうそうない。
着替えた後、師匠に温泉に連れて行ってももらい、付属の食堂でラーメンを食った。
温泉は恵庭温泉といったと思うが、露天風呂が良かった。
茶色の湯で、水中が見えない。
湯温はぬるめで、ゆっくりと入ることが出来る。
鹿児島にもぬるめの温泉があるといいのだが、結構熱いところが多い。
鹿児島の人は熱い温泉が好きなのだろうか。
温泉に入った後は、札幌に電車で向かい、1時間ほど待った後、まりもに乗り込んだ。
まりもの話は明日にでもする予定だが、寝台車は、鹿児島−大阪間を走る「なは」に続いて2回目だ。
前回と同じミスを繰り返さないよう食料を買い込んで電車に乗り込むことにした。
カヌーとカヤックの違い。
未だによくわからないが、少なくとも僕が乗ったカヤックは下半身を船の中にすっぽりと入れ込んで乗り込むタイプのものだった。
基本的にカヌーよりも視線がさらに低く、水面よりわずかに上ぐらいになる。
また、長さもカヌーよりは短いので、操作性も良く、くるくると回る。
最大の違いは、バランスをとることがカヌーよりも難しいこと。
特に乗り降りの際はバランスを崩しやすい。
僕も、案の定、カヤックに乗り込むときに思いっきり転んだ。
転ぶといっても、カヤックごと転ぶので、カヤックから足を出すのに手間取っている間は水面でもがくことになるので、結構みっともない。
水位も膝よりも下ぐらいしかないのに、転ぶというのは何とも情けない話だ。
カヤックはカヌーよりも小さく、水面に近いせいか、カヌーよりもさらにいろいろな場所に近づくことが出来る。
川の中に生えているアシの群落の中に潜り込んだり、狭い水路を進んだりも出来る。
(「出来る」というか、操作が下手なので、勝手にカヤックがすすんでいってしまっただけだ)
とりあえず、この日はカヤックの性能を知った程度で周りが暗くなってきたので、修了ということになった。
「人間はボートに乗るように、未来へ背中から入っていく」
という言葉がある。
ボートは、進行方向に対して背を向けてこぐ。そのとき、よほどの人物でない限り、進行方法は見えない。これと同じように、人間は未来がちゃんと見えて未来に向かっていくわけではないんだ、という程度の意味だろう。
一方、ボートとにたような格好をしているカヌーは、ちゃんと前を向いて進んでいく。
これが当たり前のようで、ボートとカヌーを分ける最大の違いのようだ。
ボートで激流に突撃するような(緩やかな川下りでも同じだが)体験は恐ろしいを通り越して、無謀というか自殺行為だろう。
それに対して、カヌーやカヤックはちゃんと進行方向を向いているので、こういう状況にも対応が可能である。
それに、今回乗ってみて気づいたのだが、カヌーというのは非常に小回りが利く乗り物だ。
目の前に岩が迫っていても、技術さえあれば回避することが可能だ。
さて、初めて乗ったカヌーだが、この気持ちよさは一生忘れないだろう。
川の流れに乗って進むカヌーに座って、時折方向転換をかねてカヌーのパドルを漕ぐ。
その、パドルが水に入るぱしゃっという水切り音がまたいい。
景色は、水面に浮かんで周りを眺めているので、普段立って川を見下ろすのとはちょうど逆の景色になるのだろうか。
水面より上にあるものはすべてを見上げるような視線になる。
水面に張り出した木の下を通ると、普段なら木の上から下をのぞき込むはずのところを見上げることが出来る。
(カヌーっていいなあ、操作も簡単やし)
調子に乗っていると、鳥畑師匠からカヌーを岸につけるように言われた。
ひとりずつカヌーに乗って操作の練習をするためだ。
練習である程度上手になっておくと、いざ急流に入っても怖くなくなるはずだ。
そんな意気込みで練習をしてみたが、よくよくわかったことは、川の流れのことだ。
(川というものは上流から下流に流れるものだ)
単純にそういう風に思っていた。確かに流れの速い場所や緩い場所はあるだろう。
それでも、上から下への原則は変わらないはずだ。
実際に川をカヌーで下ってみると、こんな思いこみがいかにも川のことを知らない人間の印象であることがわかる。
川には淀みのように水がほとんど流れない場所もあるし、ところによっては逆流している場所もある。
こういう場所にカヌーを入れると、カヌーを停止させることが出来る。
川下りをしているときは、こういう場所にカヌーを入れて休憩することも出来るし、練習中は、ここをベースにして、川を上ったり下ったりすることが出来る。
また、川の流れの速度が違う場所にカヌーをおくと、流れを利用してターンを容易に行うことも出来る。
(流れに変なつっこみ方をするとひっくり返る(沈する、と言う)が)
カヌーにある程度慣れると、カヌーの練習は終わりにすることになった。
少々物足りない気もしたが、時間の都合もあるので仕方がない。
(これで終わりかなあ。まだ明るいからもう少しやりたいなあ)
僕と相方は期待と失望が入り交じった思いでカヌーを漕いでカヌーを回収する予定の場所まで川を下った。
すると、そこには一人乗りのカヤックが2艇おかれていた。
どうやら、師匠は明るいうちは水遊びをさせてくれるつもりらしい。
「勉強」と言っても、堅苦しいものではない。
もちろん、早くカヌーに乗せてくれ!という気持ちは強くあったが、それ以上に、この勉強はためになった。
勉強内容は、(1)千歳川周辺の歴史について(2)緊急時の対応方法について、である。
千歳川の歴史についてであるが、実はカヌーに乗り込む場所の反対川の岸にはアイヌの遺跡がある。アイヌ民族がその場所で1000年近く営々と生活を営んできた跡を、地面のくぼみとなって林の下生えの中にかいま見ることが出来る。
彼らの住居は竪穴式住居であるので、家がなくなっても地面に掘ったくぼみは残るということだ。
アイヌの人々が長年暮らしてきた場所で、数百年後、彼らと同じような船を使って川を下る。
そういう体験をこれからするんだ、と思うと「持続可能性」という言葉がふと浮かんできた。
カヌーのようにどれだけ時間が経っても廃れない技術と、どれだけ時間が経っても利用することが出来る場所・環境という二つがあってはじめて、僕はこの場所でカヌーをすることが出来る。
こういうのが、持続可能性のごくごく身近な例だろう。
カヌーに乗る前に実施されたもう一つのお勉強は、緊急時、要するには川に落ちたときのことだが、どうすればいいのか、と言うことだ。
まずは百聞は一見に如かず、ということで、川に浮かんでみる。
いや、浮かぶというか、流されるといった方が正確だろう。
下流を足の方にして川面に寝ころぶと、ライフジャケットのおかげで体が浮く。
そのまま、空を見ていると、
(これでも十分楽しいなー。カヌーに乗らずにこのまま流されてもいいかも)
そういう気もするぐらい気持ちがいい。
ウェアーを通して伝わる冷たさもちょうどいい冷たさだった。
唯一水に直接浸かっている手の先はかじかみそうなぐらい冷たいのだが、それもちょうどいい刺激といえないこともない。
この、川に流されるという経験の意味が、ある程度深刻さを帯びて実感できるのは、立ち上がろうとしたときだ。
何気なく、立ち上がろうとするのだが、流れが強い場所だと、足を取られて思うように立ち上がることが出来ない。
そのまま水流に足を取られて数メートル流されてしまう。
また、何とか足がつく程度の深さの場所を岸に向かって歩いていると、突然深い場所があり、そこにはまりこむとまた流されてしまう。
川底は、中央から岸に向かって順番に浅くなっているわけではないということだ。
起居が自分の自由にならないというのは結構怖い経験だ。
そういう経験を繰り返すうちに、流されてしまっているときにはどうしようもないということがわかってくる。
通常の川というのは、深い場所と浅い場所が繰り返されるので、いつか浅い場所に到達する。
それまで足を下流に向けて浮かんでいればいい。
それが実感できたところで、この練習というかお勉強は終わりだ。
このほかにも緊急時の救助方法などいろいろなことを習ったが、それはまあそのうちに役立つだろうということで、特に書いておく必要はないだろう。
とにかく、早くカヌーに乗っている話に移りたくて仕方がない。
飛行機は正午に北海道千歳空港に到着した。
今日はこれから、「バイエルンの風 カヌー学校」というカヌースクールの代表の方にカヌーを教えてもらうことになっている。
そこで、到着してすぐに、校長の鳥畑氏に連絡をとる。
すると、まず昼飯を食え、ついてはおすすめの店がある、との返事だった。
僕ははやる気持ちを抑えて、教えてもらった店で昼飯をとった。
というのも、どっちにしろ昼食を食べなければお腹が空いてカヌーどころではないし、せっかく北海道にきたのだから、一食でも食べるチャンスを逃したくないと言うことがあったからだ。
カヌーサイトに向かう途中、千歳川を見せてもらったが、千歳川はこんなに水の豊かな川が日本にあるのか、と思うぐらいに豊かな水量の川だった。
しかも、水は冷たくて、澄んでいる。
水が冷たいというのは、この中に落ちたら体が凍えてつらいのでは?と思うぐらいの冷たさだ。
鹿児島から到着したばかりの人間にとっては冷たすぎる。。。
それからようやく到着したカヌー学校では、ウェットスーツとドライスーツを手渡され、着替えることになった。
実はこのときまで、カヌー用のドライスーツというものはダイビングのドライスーツと同じものだと思っていた。
つまり、黒いゴムでできた、体にぴっちりしたスーツのことだ。
実際に見たカヌー用のドライスーツはこれとは180度異なるものだった。
スーツの首、手首、足首の部分がゴムで出来ていて、水が入らないようになっている。
体の部分はだぶだぶのビニール製だ。
ちょっと見にはパラシュートをするときの格好(?)ににている。
この上に、ライフジャケットをつければようやく準備完了だ。
これだけ準備をすれば、カヌーをしている最中に水に落ちても大丈夫そうに思える。
ただいま、東京にきています。
ちょっと、今後あちこち行くときのために宿泊先の記録をつけておくことにしました。
フォーマットはこんな感じ
場所:東京都新宿区
最寄り駅:新宿御苑、新宿三丁目
施設名:東京ビジネスホテル
価格(一泊):5000円
情報源:旅の窓口
備考:
宿泊先は東京ビジネスホテルというところ。
新宿御苑駅から歩いて6分くらいの場所にあります。ちょうど、東京電力の裏手になる、といえば東京の人はわかるのでしょうか。
この場所は、新宿からも歩いて15分くらいのところにあります。
部屋は風呂・トイレ・洗面所共同、朝飯付き(和洋食バイキング)という条件で5000円です。
洗面所までが共同のため水回り設備が部屋にないので、広々とした部屋です。
なんとなく全体的に古いのですが、風呂は大浴場で広いし、トイレも洋式できれいです。
Richard D. Duke著、中村美枝子・市川新訳、「ゲーミングシミュレーション〜未来との対話」ASCII、2001年
経済学にはゲーム理論という分野があり、複数主体の意志決定方法について考察している。この本もそういう分野の本なのかな、と思って買ってみた。
この本は、予測不可能な未来を表現するためには、要素還元的な手法では難しいのではないかという観点から書かれている。
未来が予測不可能、あるいは予測困難であるのは、現実世界が高度に複雑化された社会であるからである。
それに対して、現実を表現するために人類が持っている表現方法というのは基本的に原始時代から変わっていない。
現時点で考えられる手法としては、ゲーミングによって未来をシミュレーションしてみることが有効な手法ではないだろうか、と言うのが筆者の主張だ。
ここでいうゲーミングとは、いわゆるコンピューターシミュレーションではなく、むしろワークショップなどの会話を中心としたシミュレーションである。その意味では、最近、少しはやっている実験経済学という分野が経済学では近いだろう。
さて、この本、いちおう読んでみて気になった点が一つある。
それは、ゲームの評価手法が必要だという点が指摘されているのだが、具体的な評価方法に納得がいかない。
著者は評価方法として、タイトル・分野・所用時間・簡単な内容の解説をつけることが必要だと提案している。
しかし、これは単なるカテゴライズ、あるいは目録づくりであって評価ではないのではないだろうか。
評価というのはあくまでもそれが有効なのかどうか、他のものと比較してどうか、などを見ることが出来るものではないかと思う。
本書は第1部と2部がゲームデザインの理論になっていて、後半がゲームデザインのマニュアルになっている。おもしろかったのは前半部分の理論の部分だ。ゲームの利用によって総体的な(一つの)未来像を提示することができるという点は確かに納得できる。一方で、後半のマニュアルは中途半端な気がする。これを見て理解できる人はすでにこういう内容を知っているだろうし、ゲームを作成するときのハンドブックとして使いたい人にとっては難しすぎるのではないだろうか。ちなみに僕は難しいと感じた。
高寄昇三「ごみ減量再資源化政策」ぎょうせい、2001年
本書のサブタイトルは、「財政破綻を招かないために」である。財政とごみ処理行政の関わりという観点では、ごみの有料化についての検討が記されている。
ごみの有料化というのは、ごみを収集する際に一定の手数料を徴収するというものであり、その目的には、(1)ごみ処理の費用を住民が直接負担する(2)ごみの排出量に応じた費用負担をする(3)ごみ処理費用を住民が意識することによってごみの排出量を減らすという3つの効果が考えられる。本書では、このうち特に(1)の観点に着目した記述がなされている。
類書では、ごみの有料化の効果が基本的にごみ減量を中心に書かれているため、これは本書の大きな特徴だろう。
本書は有料化に際してはシアトル市の事例をあげて解説している。この他にも折に触れて海外事例を紹介している。また、国内事例も豊富に紹介されており、ごみ減量政策の現状を調査する上での基本的な文献として位置づけることが出来る。
ただし、著者が独自で調査した事例は少ないようで、他の文献からの引用が多い点は若干気になる。
全体的な編集方針として、基本的な考え方よりもむしろごみの減量化という現実の問題に行政の現場がどう対応しているのかという点の調査を重視している印象がある。そのため、何の予備知識もない人が本書を読むことで、ごみ問題の現状を理解することができる。一方で、現在想定されていないような問題が発生した場合に、自ら考えることができるような方針を提示することはしていない。その意味でもやはり本書は事例集としての位置づけが強いように思う。
事例を豊富に採用し、最新の情報を掲載することがある程度重視された本書は、事例が古くなってしまい、考え方自体も時代に合わなくなってしまうという懸念がある。
その意味では、定期的な改訂が望まれる。
とりあえず、ごみ問題に関心がある人は本棚に一冊あってもいいと思う。
一見専門的に見えるが、記述・内容ともに平易なので、特に読むのに苦労することはないと思う。
相方が耳せんを買った。
2組で3百円。
「迷ったから高い方にしといた」
って言ってたが、1組で200円の方が高いと思います。
僕は耳せんというものを使ったことがないし、そもそも勉強中に周囲の音が気になることがないので、その必要性についてはよくわからない。
どの耳せんがいいのかどうか、そんなことすら知らないし、考えたこともない。
たぶん、相方も同じような感じだったのだろうが、
(耳せんってどれぐらい使えるん?)
というレベルで、ついつい買ってみたというのが真相のようだ。
その効果は、まあ、いちおう周囲の音はある程度聞こえなくなるのだが、話し声が全く聞こえなくなるとかそんなのではない。
「無音」に近い状態におかれるのかなあ、と思っていたのだがそんなわけではないようだ。
少し考えれば、音というのは振動によって空気を伝わってくるのだから、耳の穴をふさいだところで振動が伝わってしまえば音は聞こえるというのがわかるから、耳せんというのはこんなものなんだろう。
さて、おもしろいのが、この耳せんのパッケージ。
「スウェーデン生まれエコ耳せん」という名前の商品だが、「世界で唯一の自然が生んだエコタイプ」「耳にやさしい、自然が生んだ。」と書かれている。
いったい何が「自然が生んだ」なのかな?と思ってみると、これが全くわからない。
形としては、耳の穴に近い大きさの「円錐形」のビニール袋に綿が入っているような感じ。
この綿はグラスウール製で燃焼しても有毒ガスがでないらしい。
でも、グラスウールは自然から生まれたりはしない。
生産向上の特徴が書かれているが、「ISO9000認定工場、ヨーロッパ安全規格基準(EN)、アメリカ安全基準規格(ANSI)」とある。
一瞬、環境基準なのかなと思ったが、ISOの環境は14000シリーズだし、ヨーロッパの環境基準はEMASだ。アメリカはたぶんISOが使われてると思う。
ちなみに、9000シリーズは工場の品質管理に関する基準だ。
ふむ。
用途は、いろいろ書かれているが、最後に「パチンコに最適」とある。
それから、「難聴の予防に」とも書かれている。
なんだかわけがわからない。
というか、よくよく考えれば、
(こんなもん買わんでも耳に綿詰めれば十分なんでは?)
という気がつくづくする。
それで結局、どこが「自然が生んだ」なのかと考えると、やはり、「スウェーデン生まれ」というのではないかと思う。
スウェーデンって自然が豊富なイメージがあるし、実際自然エネルギー(風力発電)大国でもあるから、そういうイメージは当たっているかもしれない。
でも、スウェーデンでは、耳せんが池に自生しているのか、とかいったらスウェーデン人、めちゃめちゃ怒ると思う。
ビニールが木に成っているっていっても怒ると思うよ。
こんな「エコ耳せん」ですが、欲しい方は本屋さんのレジ脇におかれているはずだ。
チェックしてみて欲しい。