教育に対する思い

僕は大学で学生を教えています。当初は科目を一生懸命教えて、ゼミでは学生と一緒に遊んでいました。その後、教育というものは人格教育であって、単に科目を教えるのではないと感じるようになりました。ではどうすればいいのか、さっぱりわからないという悩みの時期に入ります。

最近では、そんなふうに大上段にかまえるのではなく、学生が卒業後に使える考え方を提供すれば良いと考えています。個々の講義で提供する専門知識は大切ではありますが、人によっては卒業後、実際に必要になることはないでしょう。
でも、「教養」という形で、その人の血肉となるはずです。

ただ、僕が教育で求めているのはそういう個々の科目の内容を超えて、大学生活全体でなにを伝えることができるかということです。

僕が教育で意識して伝えようとしているのは、1)世の中を理解する視点を獲得し、2)世の中で出会う概念の理解と使い方を学ぶことの2点です。

人間が動物と異なるのは、世の中を抽象化した概念を理解し、使用することができることです。それがあるからこそ、生まれて普通に暮らしているだけでは得られない知識を習得でき、動物以上の存在となれるのです。

僕はプログラミングを学んできて、世の中を理解できるようになるためにはどのような学び方が必要なのか考え続けて来ました。その中で、学ぶ対象と学び方を分けることが可能であることに気づきました。両者を分けることで、学ぶ対象が変わってもその対象を理解することができるようになります。

現代のように、世の中がすごい速さで変化している時代では、10年先、20年先に今学んでいること、常識だと思っていることが、どのように役立つかはわかりません。それでも、僕たちが生きていけるのは学び方を知っているからなのです。

Gmailが生まれたのが、2004年だとご存知でしたか?それまでは、一般の人の多くはメールは専用のソフトで使用していました。Gmailが出て、Web上でアプリケーションが動くことに多くの人が気づき、Web上でなにができるのか、さまざまな可能性を模索し始めました。そして、それまでに販売されてきたメールソフトのビジネスは一気に成り立たなくなったのです。

世の中を理解する視点を獲得する

「自分なり」という言葉があります。僕はこの言葉を安易に使うべきではないと思っています。同じような言葉で、「学生目線」という言葉がありますが、あほ丸出しと感じます。

こういう言葉を使う多くの人は、世の中を単なる感情でしか見れない人です。
自分なりの視点というのは、普通に生まれて暮らしてきて持つ視点でしょう。それもありかなとは思いますが、

概念の理解と使い方

パタン・ランゲージというものがあります。